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ザック・バラン第27回:ヒビという隙間、そして利益

あなたが大切にしているものに罅(ヒビ)が入ったとき、あなたはひたすら嘆くだろうか。
経済的な利益というものは、罅を隙間と見なすことで生まれるのだと思う。利益を追求するものが自ら罅を作ってしまうことも珍しくない。
音楽産業を見るとどうだろう。爆発的にCDが売れた時代に「音楽配信」という罅が入った。いまでは楽曲をダウンロードするだけでなく、ストリーミングで視聴することが増えているし、国によってはそっちの方が需要がある。
一見、CDに頼った産業の基盤に大きな罅が入ったように思えたけど、結局メジャーな音楽業界はディスクに特典やプレミア感を付与し、音楽配信を大胆に行う方針に転換している。罅を隙間と見なしたわけだ。
こうしたビジネスのあり方は、賢いとも言えるしずるいとも言える。だけど、「利益」を追求する姿勢は見習うべきものがあると思う。
この記事を書いている8/15日の夜、僕の住む大阪は台風10号に見舞われている。といっても台風って感じはあまりなく、梅雨に近いぐらいの天気。
僕の住んでいる周辺の交通機関は動いていたので、気分転換に電車で数駅のところに出かけていた。驚いたことに、仮にも暴風警報が発令されている午後8時に電車には小学生だけの集団がいた。
この状況を見た人は「最近の親はちゃんと教育していない」と思うだろう。家庭での教育に罅が入っているように思うだろう。実際にそうだと思う。でも、一歩引いてこれを隙間と見なせば、たとえば「親のあり方」を祖父母や地域コミュニティと共有する機会が減っている可能性や、ネットで子育てを調べ過ぎて親が独りよがりになってしまう危険性などが見えてくる。
家庭や教育という場に入った多くの罅を、残念ながら経済的利益を目指して隙間と捉えている企業や個人はたくさん存在する。
だからこそ、彼らの利益追求のスタンスを見習う必要がある。しかし、決定的に異なる点がある。経済的利益以外のものを求めることだ。それは音楽でも教育でも、あらゆる分野について言える。
僕がちょっと前に作った楽曲に「黄金時代」という歌がある。昨年、僕は身内の死に2回も直面した。人の死に際して、あまりにもたくさんのお金が動いてしまうことにどうしても違和感を抱いてしまった。それを割とそのまま歌にした。
少なくとも現代の日本では、放っておいても経済的利益を求める組織や個人はたくさんいる。そっちの方が多…

ほぼ復活

8月に入った途端に来た不調が今日ようやく落ち着きました。

僕の診断名は統合失調感情障害なんですが、困っている症状は双極性障害(躁うつ病)に近い症状なんですよね~。軽い躁状態と元気な時って本当に自分でも区別がつかなくて、ついつい飛ばしがちです。

ネットを見ても医師に聞いてもやはり躁状態の時にいかにブレーキを掛けられるかが課題のようです。あくまでも僕の感覚ですが、躁状態で上がった分の3倍くらいはうつ状態になっている気がします。

今年の5月からレキサルティというかなり新しめの薬を飲んでいて、薬を切り替えた頃はすこぶる調子がよかったんです。多分、新しい薬への期待からちょっと躁状態になっていたのかもしれません。

ただ、レキサルティを飲み始めてからは実際に比較的うつの波が小さくなっている気はします。元々飲んでいたエビリファイという薬が合っていて、レキサルティはその進化版のようなので、今後もう少し調子が安定すればいいなと思っています。

とりあえずまだ回復したばかりなので、無理せずにやっていきます!

終焉

調子が悪い時こそ、少しでも自分の思うことをうまくまとめたい。

2日前から怪しいとは思っていたけど、案の定今朝からとんでもなく持病の調子が崩れた。5月にレキサルティという薬に変えてから、ここまで悪くなったのは初めてだ。その前は毎月のように酷かったけど。

卒論の申請前でよかったと思う。やっぱり、僕は一生治らないこの病気を抱えている限り、いろんなことを我慢したり、諦めないといけないと痛感した。

やりたいことではなく、できることを選ばなければならない。不本意なことの中から、可能な限りマシなものを選ばなければならない。自分の人生はそういうものだと、今回の不調にそう思い知らされた。

なぜこんなことにと嘆き続けるわけにはいかない。この不本意なことだらけの中で、葛藤を乗り越えるだけの人生でも、生きねばならない。

諦めるべき物事は諦め、絶つべき縁は絶ち、それでも生きねばならない。

悲しい人生だと思う。虚しい毎日だと思う。

ザック・バラン第26回:知識と知恵

僕はここ数年、文章を書くという行為に真剣に向き合っている。
セクシャリティ関連のライターとして仕事をいただいたり、卒論の下地となるドキュメントを書いたり、こうしてブログを書いたり、責任を伴う文章を書く機会が増えた。
たくさんの文章を書いていると、ふとこれまで気にしていなかった疑問が生じる。たとえば「自分が書きたいことと閲覧者が求めていることのバランス」なんかがそうだけど、必ずしも「書くこと」に関する疑問ではない。
表現という意味での文章でも、情報提供という役割の文章でも、仕事の文章でもアカデミックな文章でも、哲学を持っていないと書き続けられない。ここでいう「哲学」は「考えること」とほぼ同じだ。
僕は知識を基に書いていることが多い。そこで考えるのが、知識と知恵の違いという、ちょっと陳腐な香りもするけど重要なテーマ。多分、人の数だけ答えがあるから、辞書的な定義をいくら出しても決着はつかないし、つける必要もない。
僕の答えはなんだろう。
知識は外に出るためのものだと思う。知恵は内側でうまくやるためのものだと思う。内と外はコミュニティのこととは限らない。
たとえばだけど、国語の授業で学ぶ何段活用とかいう日本語の文法、アレは習っている時は「当たり前じゃん」と思うことが多いけど、授業の目的はまさに当たり前の母語の構造を客観的に見つめることだろう。つまり、僕たち自身が使っている日本語というものを、外から見るために日本語の文法の授業がある。
知識とはそういうものなんだろう。解剖学について知れば、自分の体の構造を客観的に外から眺めるようなことができる。
一方、知恵という言葉は情報や技術を何らかの具体的な場面に役立てる時に使われている印象が強い。知識に比べて現状やその場により肉薄した動的なものが知恵かもしれない。
こんなことを考えて、当たり前だけど重要なことに気づく。知識も知恵も、必ずしも正しいわけじゃないんだと。
僕の定義に合わせると、知識を持てば人は物事を外から見ているつもりになる。あの国の歴史はこうだからこんな国民性なんだろう、とか。でも、それが正しいとは限らない。確立したように見える知識が塗り替えられることは多々あるし、誰かの利害に一致した知識も少なくない。外から見ているようで、実は誰かの手中に収まっているかもしれない。それが知識。
同じく、知恵は蒙昧(もうまい)な状態を生む…

ザック・バラン第25回:曖昧な線に囲まれて

今までの人生で僕はどれだけの確証を得ただろう。
どれだけのことを疑わなかっただろう。

僕は世界がとんでもなく曖昧なものということに薄々気づいていた。人間がその曖昧さを無理に分断していることにも気づいていた。そして、その方が生きやすいこともよくわかっていた。だからこれらの気づきを無視し続けた。

でも、曖昧な線はとんでもない方向からやって来る。

僕はいま、大学の卒論の準備をしている。テーマを絞る前にとりあえず興味のある分野の文献を一通り読んでいた。その中に精神障害に関するものがあった。『DSM』と呼ばれる、実際に多くの精神科医も用いている書物の原典やそれに関する文献をいくつか読んだ。

そこで僕は衝撃的なことを知る。精神障害が脳の病気ということは、実は証明されていなかった。それを示唆する研究や実験はあるけど、どれも再現性に欠けるという事実を知った。

もう1つ分かったことがある。医療において、「この薬が効くからこういう病気がある」と考えるのは御法度らしい。薬が先に来てしまうとその薬を販売するために「病気」が作られてしまうからだ。

要するに、精神医学は恐ろしく手探りな状況ということ。ある薬が効いているのは「恐らくこういう脳内物質がそういう働きをしているからだろう」という推測に支えられている。しかし、脳内物質についての研究も恐ろしく脆弱で、アドレナリンが興奮に結びつくという一般的にも知られていることすら、実は確証があるわけではないらしい。

この時、僕は民間療法に走る人の気持ちが一瞬分かった。そりゃまあ、原因も確定していない病気や治療について悩んでいたら、民間療法が「それっぽく」見えてくる。でも、冷静になって僕はすぐさま正統な医学からも民間療法からも適度な距離を置いた。

人間は確固たるものが好きなんだろう。というか、そっちが安心するんだろう。

何か辛い気分になって、「それは人生でよくあるものだね。時の流れに任せよう」と言われると無責任に突き放された気分になる。「それは○○病の症状だね。いい精神科医がいる。この薬は新しくて、こういう効果がある。きっと良くなる」と言われた方が、なんだかとても思われている気分になるし、言った方も相手に最良のアドバイスをした気になる。

いわゆる民間療法はその裏返しだと思った。民間療法や迷信に走る人は、結局のところ医学と非医学の間の「曖昧な状態」が嫌なも…

放送大学授業レビュー第1回:初歩のイタリア語(‘17)

日本人講師とイタリア人講師の二人による初心者向けのイタリア語の授業です。印刷教材には会話のスクリプトと文法の情報がまとめられており、ちょっとしたコラムも載っています。

外国語の授業にしてはかなり親切なテキスト、映像授業ですが、中学や高校時代に英語が苦手だった方だと文法用語、活用などちょっとしんどいところがあるかもしれません。授業自体のしんどさというよりは、イタリア語と言う言語自体の難しさと言った方が正確かもしれません。

僕はもともとイタリア語でイタリア料理のレシピを読んだり、イタリア文化に原語で触れたいという思いがあり、それ以前からイタリア語を勉強していました。映像授業では主にイタリアの食文化に注目したダイアログが繰り広げられ、イタリアの綺麗な街並みも見られて楽しかったです。

また、印刷教材の文法事項がかなりよくまとまっており、僕はDuolingoというスマホアプリと放送大学のテキストを使いつつ、イタリア語の勉強を継続しています。

平成29年度2学期に取ったこの授業の成績はA○でした。試験は持ち込み不可でしたので、単位が欲しいけど語学に自信があまりない方は避けた方がいいかもしれません。

放送大学授業レビュー第2回:和歌文学の世界(‘14)

様々な和歌に触れつつ、その背景に潜む歴史や作者について学んでいく授業です。僕は印刷教材のみで勉強していました。専門科目なので結構深い内容ですが、特に和泉式部の章は個人的に「こんな意図があったのか…」とかなり感動させられました。
和歌と言うとなんだか小難しく、現代から解釈しようとすると古語の文法事項を押さえておく必要があるため、少し「機械的な読解」をしている気分になるかもしれません。しかし、作者の意図をしると、まるで歌謡曲でも聴いているかのようなしみじみとした風景が思い浮かんできます。そのような和歌の理解、解釈に役立つ良質な授業でした。
試験の成績はA○で、印刷教材の持ち込みが可能でしたので、比較的単位は取りやすかったです。