ザック・バラン第25回:曖昧な線に囲まれて

今までの人生で僕はどれだけの確証を得ただろう。
どれだけのことを疑わなかっただろう。

僕は世界がとんでもなく曖昧なものということに薄々気づいていた。人間がその曖昧さを無理に分断していることにも気づいていた。そして、その方が生きやすいこともよくわかっていた。だからこれらの気づきを無視し続けた。

でも、曖昧な線はとんでもない方向からやって来る。

僕はいま、大学の卒論の準備をしている。テーマを絞る前にとりあえず興味のある分野の文献を一通り読んでいた。その中に精神障害に関するものがあった。『DSM』と呼ばれる、実際に多くの精神科医も用いている書物の原典やそれに関する文献をいくつか読んだ。

そこで僕は衝撃的なことを知る。精神障害が脳の病気ということは、実は証明されていなかった。それを示唆する研究や実験はあるけど、どれも再現性に欠けるという事実を知った。

もう1つ分かったことがある。医療において、「この薬が効くからこういう病気がある」と考えるのは御法度らしい。薬が先に来てしまうとその薬を販売するために「病気」が作られてしまうからだ。

要するに、精神医学は恐ろしく手探りな状況ということ。ある薬が効いているのは「恐らくこういう脳内物質がそういう働きをしているからだろう」という推測に支えられている。しかし、脳内物質についての研究も恐ろしく脆弱で、アドレナリンが興奮に結びつくという一般的にも知られていることすら、実は確証があるわけではないらしい。

この時、僕は民間療法に走る人の気持ちが一瞬分かった。そりゃまあ、原因も確定していない病気や治療について悩んでいたら、民間療法が「それっぽく」見えてくる。でも、冷静になって僕はすぐさま正統な医学からも民間療法からも適度な距離を置いた。

人間は確固たるものが好きなんだろう。というか、そっちが安心するんだろう。

何か辛い気分になって、「それは人生でよくあるものだね。時の流れに任せよう」と言われると無責任に突き放された気分になる。「それは○○病の症状だね。いい精神科医がいる。この薬は新しくて、こういう効果がある。きっと良くなる」と言われた方が、なんだかとても思われている気分になるし、言った方も相手に最良のアドバイスをした気になる。

いわゆる民間療法はその裏返しだと思った。民間療法や迷信に走る人は、結局のところ医学と非医学の間の「曖昧な状態」が嫌なもんだから、医学とは正反対の非医学に向かっただけで、結局本質的には医学に依存する人と何ら変わりない。

僕はできる限り真ん中に居たい。

きっと、人は真ん中を置き去りにする。役に立たない、怖い、わからない、気味が悪い。そんなことを言って、自分は黒く刻まれた線の上に立っているつもりになる。だけど、その線がいかに曖昧なものかは、立っている本人は気づかない。

僕はその線が曖昧だと伝える人になりたい。

そして、曖昧な線の世界に常に興味を持ち、その世界を肯定したい。

あまりにも遠回りしてやっと取り掛かれた大学の卒論は、そのための一歩だ。

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