ザック・バラン第26回:知識と知恵

僕はここ数年、文章を書くという行為に真剣に向き合っている。

セクシャリティ関連のライターとして仕事をいただいたり、卒論の下地となるドキュメントを書いたり、こうしてブログを書いたり、責任を伴う文章を書く機会が増えた。

たくさんの文章を書いていると、ふとこれまで気にしていなかった疑問が生じる。たとえば「自分が書きたいことと閲覧者が求めていることのバランス」なんかがそうだけど、必ずしも「書くこと」に関する疑問ではない。

表現という意味での文章でも、情報提供という役割の文章でも、仕事の文章でもアカデミックな文章でも、哲学を持っていないと書き続けられない。ここでいう「哲学」は「考えること」とほぼ同じだ。

僕は知識を基に書いていることが多い。そこで考えるのが、知識と知恵の違いという、ちょっと陳腐な香りもするけど重要なテーマ。多分、人の数だけ答えがあるから、辞書的な定義をいくら出しても決着はつかないし、つける必要もない。

僕の答えはなんだろう。

知識は外に出るためのものだと思う。知恵は内側でうまくやるためのものだと思う。内と外はコミュニティのこととは限らない。

たとえばだけど、国語の授業で学ぶ何段活用とかいう日本語の文法、アレは習っている時は「当たり前じゃん」と思うことが多いけど、授業の目的はまさに当たり前の母語の構造を客観的に見つめることだろう。つまり、僕たち自身が使っている日本語というものを、外から見るために日本語の文法の授業がある。

知識とはそういうものなんだろう。解剖学について知れば、自分の体の構造を客観的に外から眺めるようなことができる。

一方、知恵という言葉は情報や技術を何らかの具体的な場面に役立てる時に使われている印象が強い。知識に比べて現状やその場により肉薄した動的なものが知恵かもしれない。

こんなことを考えて、当たり前だけど重要なことに気づく。知識も知恵も、必ずしも正しいわけじゃないんだと。

僕の定義に合わせると、知識を持てば人は物事を外から見ているつもりになる。あの国の歴史はこうだからこんな国民性なんだろう、とか。でも、それが正しいとは限らない。確立したように見える知識が塗り替えられることは多々あるし、誰かの利害に一致した知識も少なくない。外から見ているようで、実は誰かの手中に収まっているかもしれない。それが知識。

同じく、知恵は蒙昧(もうまい)な状態を生むことがある。風邪を引いたらひたすら汗をかくべきという昔ながらの知恵は、むしろ体をよりきつい状態に追い込みかねない。知識と違って知恵は利害に結びつかないものかもしれない。その分、疑わずに従いやすい。

この哲学は特に決まりきった答えを求めていないし、「知識と知恵」論争を引き起こすことも望んでいない。何かに役立てるつもりもないけど、こうした考えの連続が僕をつくっている。

あなたにとって、知識と知恵は何だろうか。それについて考えることは、どんな意味合いを持つだろうか。

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